神社の学び

【読み解き編】根津神社/根津(ねづ)は不寝(ねず)だった!?地名から読み解く古代信仰の謎

こんにちは。

怨霊大博士づかです。

今日は東京都文京区に鎮座する根津神社を読み解いていきます。

根津神社とは

先ずは根津神社をご紹介しましょう。

根津神社(ねづじんじゃ)は、東京都文京区根津に鎮座する神社です。東京十社のひとつとして扱われいます。
つつじの名所として有名です。

森鷗外や夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されています。

社殿は宝永3年(1706年)、甲府藩主徳川家宣(のち征夷大将軍)が献納した屋敷地に造営されたものであり、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされています。

歴史

歴史としては、日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社とされています。

古くは「根津権現」ともと呼ばれていましたが、明治初期の神仏分離の際に「権現」と呼ぶことを禁止されて神社となり、主催神に須佐之男命(すさのおのみこと)が迎えられました。しかし、地元では現在も「根津権現様」や「権現様」と呼ばれています。

祀られている神さま

主祭神

  • 須佐之男命(すさのおのみこと)
  • 大山咋命(おおやまくいのみこと)
  • 誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇です。八幡さまともされています。一旦は認めておきましょうか…

相殿

  • 大国主命(おおくにぬしのみこと)
  • 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)

ご利益

  • 災厄除け・邪気祓い…須佐之男命が祀られているからです。
  • 願望成就…八幡さまが勝負の神さまからきています。
  • 縁結び…大国主からですね。
  • 学業成就…菅原道真からですね。

関東では氷川神社に代表されるようにスサノオが祀られて神社は多いです。

すると、根津神社も地元の地名を名付けた神社なのだろうと思ってしまいますね。

そうなんだ!…思考を停止してしまうと神社の謎は解けません。

いつもの様に「何で?」と思う摩訶不思議を探していきましょうか!

根津神社の摩訶不思議と謎解き

根津権現

由緒には、古来より根津権現と呼ばれていると書かれています。

権現とは、仏や菩薩が人々を救うため現れた仮の姿という意味ですので、「根津」という仏が居たことになります。
古代、神仏習合により神と仏が融合されましたので、権現とは「神」のことです。

根津の神とは何者なのでしょうか?

根津という地名の由来から紐解いていきましょう。

根津の地名

根津(ねづ)の由来についてはふたつの説があります。

1)一つ目
根津神社が鎮座しているため、そのエリアが根津と名付けられた

2)二つ目
地形に由来する説です。
この地域が丘陵の根元にあたるとともに、港を意味する津があった為に、根津になったというものです。

一つ目の由来はありきたりでつまらないです…

二つ目の由来を掘り下げるべく、昔、縄文時代の根津の地域はどうなっていたのでしょうか?

縄文海進を調べてみます。

すると…

根津地区の縄文海進

縄文時代の根津は海岸線沿いでした。

わずかな低地部が根津付近まで延びていて、根津とは津の根でもあるという由来が納得できそうです。

根津付近は土木工事で土を掘るとずいぶん遠方までその振動が伝わるといわれていますから、埋没谷の軟弱な地盤が原因なのも理解できます。

ひとつ重要なキーワードになります。

根津とは海岸線であり港であった。

さて、このままでは根津の歴史の授業で終わってしまいます。

更に神さまにフォーカスして深堀していきましょう♪

ちょっと違う側面から根津の神を見てみます。

関東地方には「子ノ権現(ねのごんげん)」が祀られている神社仏閣が以外と多いのです。

根と子

抽象度をあげて考えると「根」と「子」は同じ「ね」です。

関連性がないか調べてみましょう。

「子ノ権現(ねのごんげん)が祀られている神社仏閣が以外と多い」と言いましたが、どれだけ多いかというとこのぐらい↓↓↓

関東地方の子ノ権現が祀られている神社仏閣

そして、こんな文献がありました。

寛文二年の印本「江戸名所記」に

根津権現は大黒天を祀るなり、根津とは鼠の謂れにて、鼠は大黒天の使者なれば絵馬などにも多く鼠を書きたりとあって、不寝権現と書せり

また、貞享四年の印本「江戸鹿子(えどかのこ)」に

不寝権現、千駄木村、ねずには大黒天神を勧請しけるにや、ねずとは鼠の社の心にやとあり云々、さるを宝永三年根津左衛門が霊を祀りて、根津の文字に改められしものなるべし。

またいわく都城必ず四神を祀り以て四方を鎮す、子はすなわち北方玄武、俗世これを子聖(ねひじり)あるいは鼠のほこらというと…とにかく根津社はもと大黒天に関係なく、鼠害を鎮むるために鼠を祝い込めた社…

これらの文献からすると、根津権現はスサノオでもなく、大国天でもなく、鼠なのだという!しかも、昔は不寝(ねず)権現とも書いていたと言っているのです。
鼠は十二支の「子(ね)」ですので根津権現と子ノ権現は同一の神さまの様です。

なにしろ
根津権現は不寝権現と表記されており、鼠の神さまである。

鼠の神さまは関東地区に多く存在していたということです。

謎は深まるばかりですが…

今度は鼠と不寝(ねず)についてフォーカスしていきましょう。

鼠とは

先ずは「古事記」を見てみましょう。

古事記には大国主神がスサノ オに力量を試され、原野で火攻めにされたとき、ネズミが現れて危難を救ってくれたとある。

ネズミは古来、火難に限らず変事・災難・不幸の前兆に敏感と伝えられてきた動物です。

次に「日本書紀」を見てみると孝徳天皇の記述にも、ネズミが「前兆」を告げる場面が何度か登場します。

大化元年(六四五)十二月九日、天皇(孝徳)都を難波長柄の豊碕に遷す。老人ら相語りて曰く「春より夏に至るまでに、ネズミの難波に向かいしは、都を遷すの兆なりき」と…

大化二年(六四六)、この年、越の国のネズミ、昼夜相連なり、東に向かいて移り去る。

大化三年(六四七)、この年、淳足柵(ぬたりのさく):(新潟市沼垂)を造りて、柵戸(木戸) を置く。老人ら相語りて曰く「数年、ネズミ、東に向きて行けるは、この柵を造る兆なりしか」と…

白雉五年(六五四)、 一月一日夜、ネズミ、倭の都(大和の飛鳥)に向けて遷る。
(難波に都を置いた孝徳天皇は、この年十月十日に崩じました)

同年十二月八日、難波から大和の河辺行宮に都が遷された。この時にも老人らは「ネズミの大和の都に向かいしは、都を遷す兆なりけり」と語り合ったという。

ネズミは食物を食い荒すといわれる一方、ネズミが大挙していなくなることは、その場所が廃れる前兆だったのですね。

不寝とは

次は不寝(ねず)について読み解いていきましょう。

不寝とは不寝見(ねずみ)のことであり、寝ずに見守っているという意味で不寝の番をすることです。

何を不寝の番をするかというと、タタラ製鉄です。

昔のタタラによる製鉄作業は、四日三晩にわたり砂鉄と大炭(燃え上がる木炭)を炉に投入し、炉の火色を見つめる重労働でした。これ不寝見(ねずみ)と呼んでいたのです。

タタラ製鉄

不寝見は大黒様ともつながります。大黒様は袋を担ぎ、おカネを吐き出す打出の小槌を持って、二俵のコメ俵の上に坐しているのが定型です。

その大黒様のまわりにはネズミがチョロチョロと描かれています。

右側が大黒天

大黒様とは大国主→大物主神の比喩表現とされます。袋はフイゴを表わし、二俵のコメ俵はホト(女陰:ホト)を象徴しています。

女陰は子宝を吹くところであるが、そのホトをホド(火処→夕タラ炉)と言い換えれば、粉宝(砂鉄からの鉄吹き)を吐き出すところとなるのです。

一旦、まとめます

鼠とは動物の鼠ではなく、不寝見(ねずみ)という職業を表すとなると、根津にタタラ製鉄を行っていて不寝の番をする人が居たようです。

そして、大黒天ともされていることが多いのですが、江戸時代に伝えられている文献からすると大黒天ではないようです。

根津神社の相殿には大国主命が祀られていますが、根津神社の本当の主は大国主神だと言うには…どうも解せません。

また、違った側面から見ていきましょう。

庚申塚

根津神社境内の乙女稲荷神社と駒込稲荷神社の間には庚申塚と賽の大神碑が置かれています。

庚申塚は1箇所に集められ、背中合わせで建てられています。

根津神社/庚申塚

塞大神碑は、元々は本郷追分(東大農学部前の中山道・日光御成街道分岐路)に祀られていた道祖神とのこと。

この追分は、日本橋から一里で、江戸時代に一里塚のあったところで、文政7年(1824年)の火災で欠損し、その跡地に明治6年(1873年)、この賽の大神碑が建てられた。その後、明治43年(1920年)に道路拡張のため、根津神社に移されたそうです。

根津神社/塞大神を祀る

塞大神も気になるところですが、根津の地を探るには庚申塚を読み解いた方が良さそうです。

庚申=荒神

民俗学でも古くから指摘されていることなのですが、稲荷神は鋳成神が転化したものです。

(はじめて私の話を聞いた方は理解できませんね。この話もまた別の機会に…)

そして「庚申」は「荒神」が転化したものという説あるのです。

地域によってはさまざまな違いがあるりますが、おおよそ大鍛冶(タタラ)の仕事が行なわれた地域には鋳成神(稲荷神)が、小鍛冶(道具鍛冶)の仕事が行なわれた場所には荒神(庚申)が奉られた可能性が高いです。

稲荷の敷地から鉧(けら)や銑(ずく)の鉄クズが、庚申塚の下から火床(ほと)跡が発見されることも多いです。

後に、産鉄地は放棄されて、神を奉った聖域だけが残り、土俗信仰やその土地の国津神、あるいは仏教思想を結び付けられて鋳成は稲荷化し、荒神が庚申化したのではないかと考えられています。

その他にも文字にはできない、隠したいことがあった為だと思っています。

それに荒神は三宝荒神として、現在でも鍛冶の火床(ほと)や台所の竈(へっつい)の神として奉られつづけているので、事実はつながって残されています。

また、庚申の「申」は猿(さる)です。

申は陰陽五行では金氣、鉄と関りが深いです。

陰陽五行以外にも理由があるのですが、話が長くなるのでこれも別の機会にお話することにします。

これらの状況証拠(関連性)を考えると庚申=荒神の図式が成り立つことが分かります。

ここまでくると荒神についても読み解いて行かなければ気が済みません。

荒神=アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾、荒波々幾)

古くからタタラ製鉄および鍛鉄が行われていた北関東や東北では、稲荷や庚申のほかに、アラハバキ神という独特な神が存在しています。

アラハバキ神は、片目が見えず片足が萎えてしまっており、うまく歩行することができない神さまとされます。

すなわち、タタラを踏みながら歩く産鉄の神なのです。

タタラの炉の温度をあげる為に鞴(ふいご)を踏んで風を送ります。

溶鉱の温度を保つ為に利き目で炎を見つづけます。

古代、いわゆる大鍛冶の卸し鉄を生業としていた人々は、歳を取ると片目片足が不自由になっていったのです。職業病ですね。

だから、アラハバキ神は大鍛冶の仕事を象徴する守り神ということになるのです。

タタラ製鉄の画像

 

 

その後押しとなる物的証拠もあり、武蔵の国(現:東京)の海岸沿いでは製鉄が盛んに行われたことが分かっている。

奈良~平安時代の製鉄遺跡の分布

海岸沿いに何故多いかといえば、赤目(あこめ)砂鉄が良くとれるからです。

今でも鎌倉の砂浜には砂鉄がたくさんとれるので理由が分かると思う。

それと!

この様な状況証拠だけではなく、物的証拠として島根には神社として「荒神=アラハバキ」が残っています。

島根県八束郡千酌(ちくみ)の爾佐(にさ)神社に付属する荒神社という神社があります。この社は荒神の社ですが、同時に客人社でもあって、その通称は「オキャクサン」あるいは「マロトサン」と呼ばれます。

爾佐(にさ)神社(右上)

さらに重要なことは、この社が昔は、アラハバキサンと呼ばれていたということなのです。

爾佐神社の宮司が曰く「いまはまったく忘れられているが、この荒神社は昔はアラハバキサンと呼ばれていた。島根半島にはこうした例は少なくない」とのことなのです。

つまり、アラハバキ=マロト=荒神=庚申は同一であり、庚申=製鉄の神=不寝見(ねずみ)=鼠=根津権現という図式なり、根津に何故「津:海」という文字が入るかが良く分かったと思う。

根津権現=アラハバキ神ということになります。

さて、根津神社の主とされる根津権現が祀られている場所は何所でしょうか?

それは本殿ではなかったはずです…

アラハバキ=長髄彦(ながすねひこ)

最後にアラハバキ神は余りにも馴染みがありません。

日本神話に出てくる神さまと関係はないかと調べると、アラハバキ神は長髄彦だと言われる説があります。

長髄彦は日本神話に登場する人物で、神武東征神話に登場するカムヤマトイワレビコ(神武天皇のこと)の敵役の国津神です。

古事記では、船で浪速国“青雲の白肩津”にたどり着いたイワレビコ(神武天皇)一行を襲撃し、イワレビコの兄(イツセ)に矢傷を負わせました。

その後、イツセの「日の神の御子でありながら日に向かって戦うのは良くない。日を背にして、つまり東方から攻め込む形で戦うべきだ」との進言によってイワレビコ一行は一旦退いて南方から回り込むことにします。(迂回して熊野に向かうルートです)

その途中でイツセはナガスネビコから受けた矢傷により命を落とすが、熊野の山を抜けてナガスネビコの本拠地の東側に出たイワレビコは、兄の言葉どおり日を背にして戦い、見事仇討ちを果たした物語になっています。

神武東征の経路

神武東征の経路図/現:大阪に入り奈良に抜けられず熊野に迂回している(赤いライン)

長髄彦はイワレビコ(神武天皇)との戦いに敗れ、殺害された…ということになっているのですが、実は生きていて津軽に落ち延びたと言われる書物が「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)です。

東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)

「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)は、古史古伝の一つで、古代における日本の東北地方、特に現在の青森県のほか岩手県、秋田県を含む北東北などの知られざる歴史が書かれています。

青森県五所川原市飯詰在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」古文書として1970年代に登場しました。

編者は秋田孝季と和田長三郎吉次(喜八郎の祖先といわれている人物)とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方(東日流)にはヤマト王権から弾圧された民族の文明が栄えていたと主張しています。

ただし、学界では偽作(偽書)説がと言われていますが、学会の言うことを真に受けているだけでは謎は解けません。

そして!

東日流外三郡誌では落ち延びた長髄彦は津軽豪族の娘をめとり「荒羽吐族」として東北を治めたと書かれているのです!

東北や北関東で古くから存在しているアラハバキ神とつながりましたね。

謎は深まるばかり

東北、北関東で古くから存在してるアラハバキ神だと言うのですが、謎を解くカギは出雲の地、島根県にありました。

そして、島根県の爾佐(にさ)神社でも昔はアラハバキ神と呼んでいたと言うことは長髄彦の影響力は島根まで渡っていたのです。

もっと調べて行けば島根よりも先、九州にもアラハバキ神の痕跡が残っているかもしれません…

これは何を示すかというと神武天皇が大和朝廷を建国する以前から日本を統治していた「王」が居たのではないか?ということです。

最終的には神武天皇(天皇の系列)が日本を統治したのですが、都合の悪い事実や史実は消し去りたいのが世の常です。

日本だけではなく、他の国も行ってきた常套手段です。

勝てば官軍負ければ賊軍のことわざの通り、勝者である正義の軍勢が歴史を作るのです。

良いも悪いも支配者は特定の思想・世論・意識・行動を誘導させるプロパガンダを歴史のなかに仕込んでいること忘れてないようにしましょう。

おわりに

歴史のなかで賊軍、罪人の様に扱われてきた、その土地の豪族が神となり、鬼となり、土蜘蛛となり、現代では神社の片隅にひっそりと祀られていることを忘れないで頂きたい。

神社に訪れた際には本殿や煌びやかな祠だけでなく、摂社や末社、ひっそりと佇む祠にも感謝の意でご挨拶して頂けるようお願いします。

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