祭ること、祀ること、まつろわぬこと

お盆も終わり、8月も終盤ですね。

お盆と言えばお祭り、盆踊りを思い出します。

出店と浴衣すがたの女子を求めて地域の祭りをチャリンコで渡っていきました。

今年も変な流行物に踊らされて中止になった祭りもあるのではないでしょうか?

さて、そもそも、祭りとはなんなのでしょうか?

祭りとは

祭りとは神仏をまつることを言います。

神仏に奉仕して慰撫・鎮魂・感謝・祈願する祭祀、祭礼、祭儀です。

一般的にはお祭はにぎやかさわがしい

そこから男女の出会いや喧嘩のこともお祭と呼ばれてきました。

「まつる」 のもとは「纏る(まつる)」です。

例えば、裁縫での「まつる」が、布の端を折り返して、裏と表を交互に針で縫いつけることのように、”あるもの”と”あのもの” を「まとわりつかせる」ことが纏るの語源です。

そこから、あるものに従って、いうことをきく状態になることを服う(まつらう)→順う(まつらう)といったのです。

そして、その反対が「まつろわぬ」です。

まつろわぬこと

古事記や日本書紀など史書にしきりに出てくる「まつろわぬ者」は、物(不平)言う草・木・石や星であり、鬼・蛇・土蜘蛛といった妖怪の類と見なされ、誅殺の標的となって消されていった歴史があります。

史書ですから、誰からみて書かれたものかは分かりますね。

消されていったことを言い換えれば、「殺す」という手段によって「まつろわせた」のです。

降伏した者のように追従こそしませんが、死者は王権に物申すことはできなくなった… 黙らせる状態をもって「まつろう者」に加えたのです。

そうした征服の意図を根元に抱く「まつる」であったから、祭られた姿というものは、一見おごそかなようであっても、実態は見せかけの儀式にすぎないものも多いです。

その証拠には、日常のなかで「祭り上げられる」とは良い意味ではありません。

祭り上げられる

祭り上げられた者には、名目ばかりで実権・実力がないのが通例です。

政治の世界や芸能の世界の方が分かりやすいかと思いますが、仕事の場でも垣間見る場面があるのではないでしょうか。

「祭り上げる」には邪魔者を敬って遠ざけることは、一見は上位に据えて、物言えぬように封じ込める意図が潜んでいます。

王権は散々この手を使って、本来の神々を祭り上げてきました。

民衆の不平が蓄積しないようにも配慮し、ガス抜きの意味で氏の上(氏神)の 祭りを許してきました。

単純なオオミタカラは祭に浮かれ、氏神の神輿を浄めているつもりで、水をぶっかけ、塩を撒いてきた。

酷いものだと泥だらけにしたり、町中引きずり回してボロボロにすることだってあります。

見覚え在りますよね。

ここで、よく考えてもらいたいのです。

人間同士にあって、相手に水をぶっかけ、塩を撒くことや泥まみれにしたり、縄で縛って街中引きずり回しすことが、どれほど相手を侮蔑した行為であるかをです。

氏神だって同じです。

王権は氏神の祭礼にかこつけて、氏子であるオオミタカラに、氏神への塩撒きや水ぶっかけをやらせ、神へのはずかしめを奨励してきたのです。

祀る

祀るという字も同じです。

普通にしらべると自然神や祖神をまつること意味します。

祀るの

示(しめすへん)は祭壇を意味します。

巳はそのまま蛇のことです。

祖神は蛇として扱われているいたことになります。

そして、祀るの遺体文字は「示」に「異」と書きます。

異界のもの、あやしいもの、あだなすものと取れます。

前項のまつろわぬ者を見て下さい。

まつろわぬ者は蛇や鬼や土蜘蛛のような異界の者なんですよね。

まつりとは賑やかなものだけではないということが分かりますね。

まつろわぬ星

まつろわぬもののひとつである星の話を今夜(2022/8/25)行います。

一見、おごそかな「星」が何故、まつろわぬものになったのでしょうか?

8/25 オンライン神社と神さまの裏歴史勉強会@日本では不吉な存在星神さまを学ぶ

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