出雲郷と書いて何て読むか分かりますか?
7/27のオンライン謎解きお話会:京都出雲路のお話でも出てきた内容です。
”いずもきょう”とか”いずものさと”ではないのです。
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出雲郷と書いてアダガヤと読むのです。
「アタの家」もしくは「アタの住む谷合い」と解釈するのですが、出雲をアタとは読めませんよね。
アタと見なされた人たちを出雲という字をあてたのですね。
さて、アタとは一体どのような意味なのでしょうか?
アタとは…
「アタ」は「仇・寇・他・異・徒」などと書かれ、決していい意味には使われていないのです。
この呼び名にはアタ、ワタ、ナダといわれる「海」と「海人」に対し、その存在を忌避したい大和を征服した王権の真意が込められています。
アタに秘められた謎を読み解いていきましょう。
アタが言葉に及ぼす効果
最近では使われない言葉になってしまいましたが、「アタ」は、あた辛い、あだじょっぱい、あた穢らわしい、などがあり、アタのあとに続く言葉に、「アタ」を冠することによって不快・嫌悪の感情が強調されます。
語意には好ましくない、いまいましい思いが含まれているのです。
また、「あためでたい」は大変におめでたという意味にはならず、アタが不快感を強調しているので、他人の慶事をそねみ羨むような意味になります。
心からおめでとうというのでなく、どこかでケチをつけたい、足を引っ張ってやりたいといった意地の悪さ、トゲトゲしい意味の含みが表現されてきたのです。
アタの語源
語源については、折口信夫(民俗学、国学者)さんや大槻文彦(日本語の言語学者)さんは「仇」から出た語と解釈しています。
その「仇」とは、自分に害を加えようとするもの、かたき、それによる怨恨・遺恨ともなる言葉です。
しかし、一般的に使われていた言葉ではなく、王権側から見たときに「アタなす者」を指して使われはじめたのです。
アタとはどういった者のことか?
「そこにアタなす者がいた。あるいはオニがいた、土グモがいた。」そうしたおどろおどろしい何者かの存在を、文献として今日に残したのは記紀(古事記・日本書紀)が始まりです。
記紀によって、アタと忌まれる者の存在を初めて知ったと言っても過言ではありません。
また、押さえておきたいポイントはオニ、土グモもアタの類いとして扱われていたとことです。
アタを解釈するのに
アタをなす者が、誰に対してアタの存在であったのか…
その点をはき違えると、本質は見えて来ません。
アタ・オニ・土グモの類を悪虐無道の者と考えたり、人間に害を与える妖怪などと単純に考えては、プロパガンダにハマってしまいます。
王権側から見たときにアタなす者を忌避して使われてきたのです。
ここまでの話で気付いてもらいたい事があります。
土グモはアタと呼ばれる存在だったのです。
土グモの「蜘蛛」を→「雲」と変換すると、出雲は雲が出るところ→蜘蛛が出るところとなります。
だからこそアタガヤと読ませたのでしょう。
もう少し、アタについて深掘りします。
神武東征が日本を建国する以前から、この国には多くのワダツミ(海人)が先住していました。
その為、アタやワダのつく地名が各地にあります。
アタカ(転じてアサカ・アザカ)、アダ、アダチ、アタミ、ワダウラ、ワダヤマ、アツタ、アツミ、 アズミなどなど沢山あります。
神武東征軍によって征服した国々は、いずれも先住ワダツミ(海人)の地であり、多くは海辺部にその営みがありました。
そのワダツミの気持ちになって考えてましょう。
アタの民の地に、突如来寇したのが神武東征軍でした。
アタの民から見れば、侵略してきた神武東征軍こそ、アタなす者であり、害を加える荒ぶる神の集団であったと思います。
ちなみに寇(アタ)には、 完全なるものを打ち壊し、乱暴を加える意味があります。
また仇・寇・他・異・徒の文字をアタと読むのは漢字に固有の日本語をあてた和訓なのです。
そして、神武東征軍に対しアタは各地で激しく抵抗しました。
侵略者の魔手からおのれの土地を、一族の生命を守ろうしたのですから、必死で刃向かうのは当然です。
各地でのアタの反撃に、ホトホト手を焼いたであろう神武東征軍には、アタが仇敵視すべき存在となっていったのは容易に想像できます。
王権が仕組んだプラバガンダの凄さがよくよく見えてくる話になったのですが、日本全土に先住した多くのアタの民に対し、ほんの一つかみにすぎない神武東征軍は巧みな術策で征服していきました。
長期にわたって…
そして、先住ワダツミのアタの民に苦渋をなめさせて仇の存在とさせ、異界の住人として冷遇させました。
「アタ」は悲惨で複雑な意味の言葉となり、この国に定着していったのです。
徒:アタ
「徒」のアタには仇敵・ヨソ者の意味の他にも意味が隠されています。
王権の八紘一宇”を肯定しないアタに長い年月をかけて執拗に殲滅されていった。
アタの死は 「徒死」だったのです。
「とし」とはムダに死ぬこと、犬死の意味です。
王権の言うことを聞いていれば、 ムダに死ぬこともなかったろうに…の意味から「徒」にはムダになる、むなしくなる、はかない意味が生まれました。
あだし野(化野・仇野・徒野)といえば、 京都奥嵯峨・愛宕山の麓にあるかつての風葬地、死体の遺棄場のことですが、やがて墓地の一般語となりました。
こういったことからも、出雲郷(アダガヤ)に住む人たちがどの様な扱いを受けていたのか、名前からも想像出来ますね。
そして、私にはアタやワダという名は誇りある名前だったのではないかと思っています。
王権はその名前を疎ましく思い、悪い印象にプロガンダをかけたのだと…
最後に
京都の出雲路、御霊神社、下賀茂神社に立ち寄った際にはアタの民と呼ばれた出雲の人たちの想いを理解して参拝して頂きたいのです。
人間は真意を理解して想いを聞いてくれると喜んで頂けますよね。
神も同じです。
神も人だったのですから
そして、現代も時の王権は存在しています。
古代と同じ様に王権側の都合がいいように私たち民衆を動かすプロパガンダを組み込んでいることを忘れないでください。
自分の意思で選んでいるようで、他人の意図した方向を歩んでしまっているのです。
こういった歴史の事実があなたが自らの道を歩むきっかけになれば嬉しいです。
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