消された富士王朝の謎#01 宮下文書の概要 その1

はじめに

日本一の象徴である富士山。現代では誰もが知っていると思う。
しかし、日本の正史である「古事記」「日本書紀」には一切記述がでてこない!まるで故意に無視をしているように感じてしまう。

そして、富士山について語る歴史書「宮下文書」という歴史が別にある。公的には偽書と呼ばれているものだ。
宮下文書とは、富士吉田市に在住の浅間神社宮司宮下家に代々伝わる古文書で、9,000年に渡る人類の歴史が書いてある。 一説には2,300年前中国から来た除福が書いたとか言われているが、実はこの文書、南北朝時代の事まで書いてあるので本当がどうかは疑問が残る。
またこの記述をもとに調査した結果、その記述の場所に証拠が未だに残っている。 と言う事は、この文書は真実の記録かもしれない。 日本の正史と言われる「古事記」や「日本書紀」といった古文書は抽象的な表が多いが、宮下文書は具体的に書かれており、登場する神々の系譜から地図まで示されている為、「日本の正史」かもしれないとも言われるほどだ。

しかし、現在、世に出ている歴史書は意図して見せていると考えた方がいい。本当に見せたくない歴書ならば等の昔に焼かれているし、現存する者があったとしても闇に葬られるだろう。
その為、いつもながら以下の調べ方で富士王朝を読み解いていきます。

  • 一旦は全てを疑う
  • 事実の証拠に基づいていること(歴史ではピンポイントで立証できる訳ではない、複合的に調べています)
  • 賛否両論を探る
  • お金の流れを探る(歴史では貨幣だけでなく金、人などの資産の流れを探ります)
  • 自らが結論をだす

※私が理事として運営している一社)みんな天才化機構から抜粋しています。

今回は色々と読み解く前に宮下文書、富士王朝とは何なのかを簡単にお話していきます。
(理解しやすい様に一部、他の歴史書の内容もいれています)

日本のはじまり

最初の神の名を天之峰火雄神(あめのほほおのかみ)とよばれ、ペルシャの北方より始まっている。 神々は此の地においてまず[五色の人」を創造し、822年を続いた。 この時代を第一神朝時代と呼んでいます。
さらに1,850年間、此の地に留まり、人類が生きて行くための環境整備をした。 この時代を第二神朝時代と呼ぶ。

その後(今から6,400年程前にあたる)、神々は世界各地に別れていった。

高皇産霊神(たかむすびのかみ)は
その皇子である国常立尊(くにとこたちのみこと)と国狭槌尊(くにさつちのみこと)と
共に日本の富士山麓に来たのが日本の国の始まりである。
この日本の国造りは第三神朝時代と呼び、7代の神皇で507年間続いた。

天照大御神

第三神朝終末、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が死去すると後継ぎ問題が発生した。
伊弉諾尊 の子供としては、長女の天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)と弟の月夜見命(つくよみのみこと)、 さらに従弟の栄日子命(えびすのみこと/ひるこ)がいた
( 栄日子命 は長男だったが、足の無い障害があったので早くから高天原を出て伊豆の淡島に竜宮を築き海の神となった。 その後竜宮は現在の西湖付近に移された。)

本来なら長男の月夜見命が皇位につくべきなのだが、姉の天照大神尊が大変聡明なため月夜見命は姉に皇位を譲ったが、姉の天照大神はなかなか引き受けなかった。 そのため、月夜見命は「私がいるから姉が引き受けないのだ」と思い、高天原を出て、富士山南麓にあった白玉池畔の家司真ノ宮に隠れてしまった。
これにより、天照大神尊は皇位の座についた。

そして、今までの「高天原ノ世」を「豊阿始原ノ世(とよあしはら)」と改めその一代神皇を称した。
この時代は第四神朝時代で5代488年間続いた。

天の岩戸隠れ

天照大神尊が統治する時代、朝鮮半島から高皇産霊神のひ孫にあたる多伽王と言う神が高天原に攻め込んで来た。 多伽王は皇居内でさんざんの悪さをしたため、これに怒った天照大神尊は天の岩戸に隠れてしまった。
天照大神尊が岩戸の中に入ったため、この世は闇となり、諸国の神々は大変困ってしまった。 そこで、天照大神の従兄弟にあたる天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が裸になり、青木の葉を付けてホト(陰部)を打ちながら「ヒフミの歌」を歌って踊った。 その様子があまりにも面白かったので、神々は大喜びしたのだ。
その騒がしさに天照大神が何事かと岩戸を少し開いて覗いたところを、力持ちの手力男命が岩戸を開いて、大神を外に出し、皇居に戻すことで世間は明かりを取り戻した。

一方多伽王は高天原で散々悪さをした挙げ句、手力男命に追いつめられ、岩陰に身を隠そうとしたところ、大きな岩の隙間に挟まれてしまった。
手力男命は「その岩は善人が通ると問題ないが、悪人が通ると挟まれて押しつぶされてしまうのだ」。
多伽王は「私には悪意は無い、高天原の繁栄を羨ましく思い、つい悪さをしてしまったのだ。 今は反省しているので、天照大神尊にお願いして助けてほしい」と救いを求めた。
そこで、手力男命は岩を開いて多伽王を助け、天照大神尊のもとへ連れて行った。 天照大神尊は多伽王が同じ神の祖先を持っている事を知り、多伽王の罪を許し、自らの義弟として、祖佐男命(すさのおのみこと)と名付けた。

祖佐男命はその後全国を平定し、手力男命夫妻と共に三種の神器を鋳造し、天照大神に献上した。
自らは山陰の出雲(現在の長野県、南アルプスの山陰、雲の湧く地が故にこの名がついた)に居を構えて、悪い事をした神の教育を担当した。
その地は戸隠と呼び、これは罪科(トガ)懲治(コラシ)が訛ったものと言われている。

木花咲耶媛尊

天照大神尊の後は天之忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、そしてその第一皇子:瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)へと継がれていく。 瓊瓊杵尊は高天原で、木花咲耶媛尊(このはなさくやひめのみこと)と出会い、一目惚れで結婚した。木花咲耶媛尊は月夜見命の長男大山津見命(おおやまつみのみこと)と事代主命長女加茂沢媛命との間に、姉の岩長毘女命(いわながひめのみこと)と共に、白玉池畔の家司真ノ宮に生まれた。(その場所は 月夜見命 がお隠れになった場所であり、また「竹取物語」の「竹取塚」として残っている)

瓊瓊杵尊の時代に九州に大陸から外敵が攻め込んで来ました。 瓊瓊杵尊は木花咲耶媛尊と共に出陣し、沼津の港に下り、海の神:栄日子命子孫の造った葦の高速船の大船団で九州へと向かった。 到着まで53日かかった。
まず陣を構えたのが住防(周防)、ここで敵の大群を防いだのだが敵は二手に分かれた。その一方が瀬戸内海に入り、四国へと向かって行った。

そのため神后は夫と別れ、自ら将として猿田彦命(さるたひこのみこと)を大将に命じ四国へと向かった。
瓊瓊杵尊はさらに対馬、壱岐を守るため手長男命(あめのたながお)夫妻を向かわせたが壱岐の石田の原にて その子供達共々戦死してしまう。亡骸は 石田南山の峰に祀られた。3年3ヶ月の戦いだった。

対馬の方は、事勇男命と事力男命を向かわして戦うが、共に戦死。 かくして事代主命子孫は対馬と壱岐の両島において、病身の一神を残して戦死してしまった。

一方、九州は武佐太毘古命が奮戦したが、敵の大軍にあって松浦の地で戦死。同所の峰に祀られた。 戦況は日々悪化していった。

そこで、 瓊瓊杵尊は全国の神々に援軍を募った。 その結果全国から続々と援軍が加わり、戦況は一転、九州は平定した。 四国の方も36日遅れてやっと平和が戻った。この戦い30の激戦だった。 今から5,500年程前のことになっています。

話は少し戻して、四国に渡った木花咲耶媛尊の事だが、高天原で娘の苦戦の報を聞いた父の大山津見命が妻の加茂沢媛命と共に応援に行く事になった。 ところが、途中の三島で加茂沢媛命が急死してしまった。 大山津見命は妻をその地に祀り(三島大社になる)急いで四国へと向かった。
戦場での父の応援を受け木花咲耶媛尊は大変喜び、愛する媛と会えたその地を愛媛と呼ぶ事になった。
ところが、幸せもつかの間、大山津見命はその地で亡くなってしまう。 最後の言葉「私も妻のところに伊久世」から、その地を伊予と呼ぶ様になったと言う。

瓊瓊杵尊は妻の戦いを見るため四国を訪れた時、妻の木花咲耶媛尊のお腹は臨月を迎えようとしていた。それを見た瓊瓊杵尊は「それは一体誰の子供か」と尋ねたところ、木花咲耶媛尊はその貞操を疑われた事を苦に、直ぐに高天原に帰ってしまった。

高天原に帰った木花咲耶媛尊は山の産屋で3人の皇子を出産し、直ぐに富士山火口に投身自殺してしまった。ここで富士山大噴火が始まった。流出した溶岩は愛鷹山で二手に別れ、一方は富士宮浅間神社の湧玉池で止まり、もう一方は三島の楽寿園の近くで止まった。その溶岩の下からは湧水がこんこんと湧き出し、人々は媛は死んで両親に合いにいった、その涙だと思った。

九州で大役を果たして凱旋した瓊瓊杵尊はこの事を知り、大変悲しみ病気がちとなってしまった。これを知った猿田彦命と 天宇受賣命が瓊瓊杵尊を慰めるために皇居で猿の舞いをした。尊は大変喜び、一時は元気を取り戻したが、間もなく亡くなった。42歳の若さだった。 この舞いが猿楽として後世に伝えられていった。
 
木花咲耶媛尊の産んだ3人の皇子は、火照須命(ほあかりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火々出見尊(ほほでみのみこと)で、後に各々海彦、農彦、山彦と呼ばれ、高天原を引き継ぐ事になる。

富士王朝の衰退

瓊瓊杵尊が亡くなった後、高天原は長男火照須命と三男火々出見尊の間で後継者問題でもめた。次男の火須勢理命は中立の立場でいた。 長い争いの末、火々出見尊が四代目「豊阿始原ノ世」神皇となった。
(この海彦と山彦の争いで兄海彦の大事な釣り針を無くした弟の山彦が栄日子命の子孫のいる竜宮に相談に行った話が、浦島太郎の伝説として残っている。)

ところがこの時代になってまたもや九州に外敵が攻めて来た、そこで神皇( 火々出見尊 )は長男の武言合尊を五代「豊阿始原ノ世」神皇とさせ、九州の平定に向かわせて収めさせた。
火々出見尊は「高天原が東の富士に有るので、西の治安維持が出来ない」と考へ、武言合尊を九州に行かせ「宇家ヤ不ニ合須ノ世」を創建させて、 その第一代神皇として鵜茅葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)と命名した。 九州の神皇は代々この名を名乗り引き継ぐ事と成った。 これによって日本は東西分治の時代に入った。

一方。高天原は、後継者争いで中立を保った火須勢理命が継ぐことになった。 時代も新たに「高天原ノ世(後期)」と決めた。 これで日本は二分され、九州は「宇家ヤ不ニ合須ノ世」が、九州以外は「高天原ノ世」が治めることになった。 そして九州の都を神都、富士を天都と呼んだ。(天都とは高天原の都の意味)。

しかし、九州の神皇の「斎祀ノ権」は全て富士が握っており、新たに神皇が立つ時は、自ら富士迄来て、三種の神器の前で儀式を行わなければならなかった。 これは大変な作業で、途中の航海で暴風に合い、亡くなった神皇さえいた。 この東西分治の時代は神武天皇の東征を向かえる迄2,740余年も続いた。

この間に九州は大陸との貿易で栄え、一方富士はだんだんと衰退していった。 此の事が東西の対立を一層深めていく事となった。 また、九州はこの間大陸から何度か侵略を受けた。

今から2,700年程前、この日本にまた一大事が起った。 大陸から五度目の侵略があり、白木(後の新羅)と周国が一緒になって攻めて来た。 これに国内の反乱も加わり、日本中が争いの渦に巻き込まれた。 「宇家ヤ不ニ合須ノ世」最後の神皇ヤ眞都男王尊は、軍船260隻を配し、皇族を集め出動を命じた。
しかし、この戦いで先ずは皇太子の五瀬王命が戦死、その後は第四皇子の日高佐野王命(後の神武天皇)に継がれた。 さらに神皇も紀伊半島で陣中にて崩御。神后照玉毘女尊がその後14年間神皇に代わって大政を治めた。 此の時代を「闇黒ノ世」と言った。

この闇国ノ世は13年10月続き、皇太子はやっと終結させた。 戦いの犠牲者は、皇軍が皇族7人、将校38人、兵卒25,000余人、賊軍が将校68人、兵卒68,000余人、また白木軍15,000余人、周国の援兵50,000人を算したと言われている。

宮下文書の概要 その2につづく

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