こんにちは。
怨霊大博士づかです。
2022年7月5日に巡る北茨城に鎮座する皇祖皇大神宮と竹内文書について語っていきます。
皇祖皇大神宮(こうそこうたいじんぐう)とは
茨城県北茨城市磯原町磯原835に鎮座する多くの神さまを祀る神社です。
https://goo.gl/maps/RQku1qqVsTCdiDrE7
皇祖皇大神宮は普通の神社とはちょっと違います。
神宮の案内には
「皇祖皇太神宮は、天神七代、二十六朝六十八代、そして神武朝から現代までの代々の天皇、皇后を合祀したお宮であります。
特定の神だけを祀る神社(かみやしろ)ではなく、すべての神々を祀る神宮(たましいたまや)であり、ユダヤ教、道教、儒教、キリスト教、仏教、イスラム教すべてを包括する万教帰一の神宮であります。」
と書かれいます。
ぶっ飛んでいますね。
何故、この神宮を訪れようとしたかというと「竹内文書」と呼ばれる古文書が関係しているからなんです。
竹内文書
竹内文書は神代文字で記された文書と、漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群、文字の刻まれた石、鉄剣などをまとめた総称です。
天津教(あまつきょう)の聖典とされておりる。
平群真鳥の子孫であるとされる竹内家に、養子に入ったと自称する竹内巨麿(たけうちきよまろ)が、1928年(昭和3年)3月29日に文書の存在を公開した。写本の多くは戦前に焼失し失われているが、南朝系の古文献を再編したとされる写本もある。
竹内文書が公開された当時に、竹内は皇祖皇太神宮天津教を興し、神職でもあった。
元々の竹内文書は天津教と直接関係はないが、竹内文書の内容と新宗教天津教の教理が加えられ教典に位置づけられているので何だか怪しい雰囲気をだしてしまったのかもしれない。
竹内文書が語る歴史:不合朝(あえずちょう)
竹内文書では神武天皇からはじまる現在の皇朝をより以前に「不合朝(あえずちょう)」の歴史が存在しており73代も続いたと書かれています。
日本ではじめての朝廷は神武天皇が築いた大和朝廷だと明言する、今の王権からすると非常に都合の悪い歴史書なのです。
その為、歴史学者からは偽書とされています。
しかし、日本の正史と呼ばれる古事記や日本書紀との共通点もあります。
不合朝21代天皇は、「伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇」といい、イザナギノミコトを表していて、その2子のうち1子が「月向津彦月弓命亦ノ名須佐之男命」ツクヨミノミコトであり、スサノオの別名ともされているのです。
因みに不合朝は竹内文書での表現です。別の古文書である「宮下文書」では「宇家潤不二合須国世」(うがやふじあわすのくにのよ)と書かれ、「ウエツフミ」や「神伝上代天皇紀」ではウガヤ朝と書かれており、「ウガヤ朝」が一般的にも知られています。(知られているといっても歴史好きの方々に限ると思いますが…)
ウガヤフキアエズの神
ウガヤフキアエズは初代天皇である神武天皇の父であり、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の孫にあたる神さまです。
古事記では天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこ ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)と書かれており、日本書紀では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)と書かれています。
そして、ウガヤ朝とはこのウガヤフキアエズ神が何十代も続いた王朝のことを言うのです。
また、神武東征の伝説もウガヤ朝が大きく関わっていたと語っています。
正史からすると都合が悪いお話ばかりです。
次はウガヤ朝と神武東征について語ります。
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