その2のはじめに
その1を見ていない方はこちらから↓ ↓ ↓
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その1に引き続き富士山の記述は日本の正史である「古事記」「日本書紀」には一切でてこない!
しかし、富士山には富士王朝が存在していたという歴史書や神社も存在する。
ここでは消された富士王朝の軌跡をたどるべく先ずは偽書と言われている「宮下文書」を知ることからはじめていこう。
しかし、「真の歴史書は何か!」を言いたい訳ではなく、この書から読み取れる場所、神(皇)の系譜、他の歴史書、地名、建造物など横串で見ていくことで何が読み取れるかを探ることに意味があると考えています。
そして変わらず以下のポイントを重要視して調べ物をしています。
- 一旦は全てを疑う
- 事実の証拠に基づいていること(歴史ではピンポイントで立証できる訳ではない、複合的に調べています)
- 賛否両論を探る
- お金の流れを探る(歴史では貨幣だけでなく金、人などの資産の流れを探ります)
- 自らが結論をだす
※私が理事として運営している一社)みんな天才化機構から抜粋しています。
富士高天原の消滅
高天原の内乱を平定した皇太子は、神武天皇に即位した。 この時から天皇は神と呼ばれた神皇から人皇の天皇なる。 そして全国を一括して治める事とし、都を奈良の檀原に置いたのが今から2,660年程前となる。
神武天皇は紀元4年4月、富士高天原に行幸して、そこに大御神を祀った。先ずは宇津峰山西尾崎山の金山に鎮まる天孫二柱の御陵の岩戸を啓かせ、その神霊の宿る霊石を小室の宮守ノ宮(現在の富士宮市の山宮浅間神社)に祀った。この二柱の神が瓊瓊杵尊と木花咲耶媛尊だ。
また中室の麻呂山に鎮まる天照大神尊、加茂山(天母山)に鎮まる大山津見命と別雷命(加茂沢媛命)、 泉仙山古峰に鎮まる猿田彦命、熱都山の笠砂の尾崎峰に鎮まる伊弉諾尊と伊弉冉尊、櫻山宇津峰に鎮まる高皇産霊神と神皇産霊神、 小室鳴沢の上の菅原に鎮まる國狭槌尊と國狭比女尊の各々の神前において親ら祭祀の礼を行った。 この神々が富士高天原の7社大神と言われている。
神武天皇は富士高天原行幸を終えると、檀原ノ宮近くの富士山が見える鳥見山に7大神を祀った高天原礼拝所を造り、建国の神々の斎場とした。
この上、天皇は即位の儀式を富士高天原で行う今迄の慣例を改め、「三種の神器」を富士から大和の檀原まで持参させて、即位式を行った。これで富士高天原の権威は殆ど無くなってしまった。
三種の神器を天窓に拝して行う即位式は、天照大神尊の定めた重要な神皇としての儀式であっが、その後も天皇は次々と高天原の権威を抹消していった。
十代崇神天皇の時、阿祖山太神宮(富士)の天照大神尊の神霊を大和に奉遷する。さらに阿祖山太神宮にあった三種の神器を大和の檀原ノ宮に移した。
十一代垂仁天皇は阿祖山太神宮の分裂を策し、富士宮市の山宮に「山宮七廟」を創建する。さらに、天照大神尊の神霊を大和から伊勢国度会ノ宮に移す。そして、高天原にあった「斎祀ノ権」を握ったことで、4,304年に亘って続いてきた「高天原」は富士から消滅をすることになる。
残される血統
高天原の名が消滅したとはいえ、その後何度か富士高天原再興の動きがあった。
景行天皇の御代、東夷と言われた富士山以東、以北の高天原の子孫は、阿祖山太神宮に会し、大和朝廷の衰えを見て、神都復活と掲げ挙兵を決した。一方朝廷は日本武尊(景行天皇の皇子)を向かわせた。
天都高天原の玄関口に当たる田子の浦の防衛に当ったのは、阿祖彦王の第一王子阿始長男命だった。 日本武尊は海上から田子の浦に入り、浮島ケ沼(浮島ケ沼は愛鷹南麓に広がる海中の島原で現在沼津から富士にかけて田圃になっている)から上陸してきた。
それを想定していた阿始長男命は八方から沼の枯れ葦に火を付けた。 猛火は日本武尊を包んで焼死したかに見えた。しかし、葦の茎を空気筒にして水中に潜んでいた日本武尊は討ち取った思いで油断しているところに突然現れ逆襲した。阿始長男命は遂には自刀した。
第一戦に負けた阿祖彦王は本拠地、富士宮市山宮に陣を構え、戦いに臨んだが結局は敗戦し、富士王朝の復興は日本武尊によって阻止された。
しかし、これによって富士王朝が無くなったわけではない。
日本武尊に熱田より同行して来た妃の美夜受媛が産気づいて王女が産まれる。福地媛と名付けた。
日本武尊は更に東征するため、この母子を阿祖山太神宮大宮司記太夫男命に託した。記太夫男命は王妃と王女の為に新宮を皇居のあった阿太都山の麓に造った。 阿太都山の麓なので坂下ノ宮(さかおりのみや)と称した。
日本武尊は奥羽攻めの後、高天原に戻り、王妃と王女に再会した後、また信濃,尾張と戦いの旅を続けたが三重で亡くなってしまい都に凱旋することは無かった。
記太夫男命に養育された福地媛は記太夫男命の養子の佐太夫男命と結婚した。 佐太夫男命は月夜見命72代阿祖彦王第二皇子である。朝廷の血統に富士王朝が入った。この二人の間には二人の王女が産まれた。 姉を気久野媛(菊野媛)妹を女登利媛(女鳥媛)と呼んだ。
姉は富士に来麓した応神天皇の王子大山守皇子と結婚し、妹は大山守皇子の弟の隼総別皇子と結婚し、月夜見命と日本武尊の血統はこうして富士に残された。
富士の噴火
富士王朝の血を受け継いだ大山守皇子は富士入麓を決意したことが大山守皇子の乱の始まりとなった。富士川を境に朝廷軍が向かい合う。
この戦いは勝敗が容易に決しなかった為、「富士王朝側は大山守皇子を朝廷側に引き渡す事」と「朝廷側は山宮から撤退し富士川の西に移る事」と条件を交わし、大山守皇子の身代わりを立て和議となった。そして、大山守皇子は「宮下」と名前を変えて阿祖山太宮司となった。
その後の富士王朝も平穏にはいかなかった。 桓武天皇の御代、西暦800年、富士山は未曽有の大爆発を起こした。 これにより富士山麓にあった高天原の阿祖山太神宮は消失、610余社と言われた由緒ある神殿は消えて、神都は壊滅してしまった。
この時、阿祖山太神宮の首脳者349人は、伊勢皇太神宮との和解のため伊勢から奈良に向かっている途中で難を逃れていたが、朝廷の企みで暫く都に足留めさせられた。それは朝廷が坂上田村麻呂を富士に仕向けて、これを機会に富士王朝の壊滅を企てるためだった。
坂上田村麻呂は富士にある神社を全て浅間神社に統一して、木花咲耶媛尊を本尊とした。さらに阿祖山太神宮は相模の寒川に引っ越しさせ、神裔をそこに追いやった。
富士と南北朝
西暦1,333年、南北朝時代、後醍醐天皇が入麓した。後醍醐天皇は吉野に居たことになっているが、富士に入麓し隠れ南朝として高天原の復活を目指した。
後醍醐天皇を入麗させたのは佐野源左衛門尉義正、富士高天原の神裔とされている。佐野氏は、先ずは現在の山梨県南部町の佐野に仮宮殿を造り、一時天皇を匿った。その後、富士の西麓に本殿を造り(現在の田貫湖付近)招いた。(田貫湖畔には田貫神社が残っている)
南朝は天皇は富士で引き継がれていくが、最後の尹良親王を御所を富士から三河に移すことにないり、甲斐と信濃の北回りで移動中、信濃伊那谷大鹿村で土民の襲撃に合い、自害してしまった。これで南朝が終わりをつげる。今も長野県大鹿村の信濃ノ宮神社にその跡を見る事ができる。
宮下文書概要の終わりに
近代に近づくに連れて、記紀の内容と交わってくる。どちらが本当の話という訳ではなく、比較する題材が増えてきて面白さが増してくる。
富士山近郊にはいくつも神社があり、そこには石碑や建造物が無数にある。ひとつひとつの歴史は点の様なものでこれらをつなぎ合わせることで富士王朝の歴史も見えてこよう。そして矛盾点などのほころびも…
それを深掘りすると本質が見えてくる気がしている。
次回からは上記の観点で色々とつなげて行きます。
お楽しみに!
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